みなさんこんにちは。じぜるです。
今回はニーチェの哲学について解説します。
この記事に辿り着いていただいてる時点で、全く哲学に興味はないこともないとは思いますが、
哲学知識ゼロの方も理解できるよう、難解な用語や表現を控え気軽に読める入門テイストに仕上げました。
かと言って、読み終えたあとにはある程度の満足感を得ていただけるように核心をついた内容となっているはずです。ニーチェの哲学はこんな方に向いているんじゃないかと思います。
・哲学者のなかでも比較的有名なニーチェの哲学をざっくりと知っておきたい
・このままじゃダメだ、なにかしなきゃ!と思うものの、何をすれば良いかわからず悶々とした日々を送っている
・なんかヒマ、とても毎日が退屈またニーチェの人となりやその生涯については詳しく触れません。そのあたりはウィキペディアという便利なサイトにまとまっているので、ここでは割愛しますね。興味のある方はそちらで補完してください。
それでは、当ブログの住人による寸劇仕立てのニーチェ解説をお楽しみくださいませ。
最強の絶望



お金もないし、ページビュー数は伸びないし。。。

(仕事してないだろ、、、)
ページビュー数はともかくとして、
つまり最近うまくいってないってことだな?

そうなのよ、なんか前向きになれないのよね。
かと言っていわゆる自己啓発本の類も読む気にならないし。

OKOK。そんなときはやっぱりニーチェだな。

「神は死んだ!」

おお、知ってるのか?

意味は知らない。
ニーチェのことも偉い哲学者ということしか知らんな。

なるほどな。たしかに「神は死んだ」はインパクトあって、
哲学史に疎い人も一度は聞いたことあるかもな。
ニーチェは他にもパンチの効いた言葉を残しているぞ。
「永劫回帰」(えいごうかいき)
「奴隷道徳」
「末人」(まつじん)
「超人思想」

中学二年生が好きそうね。

現代まで語り継がれているような偉大な哲学者ってのは、
それこそ中学生が考えるような「極端な考え」からスタートし、
それをどこまでも突き詰めて突き詰めて、
当時の常識までひっくり返してしまうような「新しい考え方」を残していたりするぜ。
ニーチェも例に漏れず、だいたい140年も前に生きたにも関わらず、
現代に通じる前向きな哲学を残しているぞ。

ふーん、前向きな哲学ね。
ニーチェの哲学について勉強すれば、
希望の光が見えてくるのかしら?

一旦「絶望」するけどな。

希望が欲しいんですけど。

ニーチェの哲学は、「最強の絶望」を想定し、
それを克服する考え方を提唱してくれているからな。
まずは一旦絶望を知ることが必要なんだぜ。

そういうことね。
わかったわよ。
どんとこい最強の絶望。

では、ニーチェがどのようなことを「最強の絶望」としたのか解説するぜ。
ここで登場する用語がさっきの「永劫回帰」というわけだ。
「永劫回帰」こそ人類が想像しうる限りの最悪の絶望!
未来永劫、永遠に繰り返される世界!

・・・それだけ?
なんか地獄に堕ちて皮膚を焼かれ目潰しの上に、
舌を抜かれてしまうようなことかと。

それはそれでなかなか絶望的シチュエーションではあるが、
ニーチェに言わせればぬるま湯だ。

ニーチェやばい。
トレイのボール
「永劫回帰」というものの恐ろしさは、まさにすべての「意味」を葬り去る究極の絶望とニーチェは言っています。トレイの上にボールが複数個転がっているとします。
こんな感じですね。少々物理学的なお話にはなりますが、都合よく空気抵抗も摩擦もないと仮定するとボールはずっと転がり続け、ぶつかっては跳ね返って延々とそれを繰り返しますね。
ボールは物理法則に従って動き続けるわけですから、これをずっとずっと続けて極端な話「無限の時間」を経過させれば、いつかはどこかで「同じ状態」となりますね。■最初の状態
■物理法則通りに運動中
■最初の同じ状態

ここまではわかるか?

そうね。
物理法則に従って動き続けて無限に時間を進めれば、
そりゃいつか、いつかと同じ状態になることもあるかもと言えますね。
一旦「同じ状態」になるということは、それ以降も同じ物理法則に従い運動を継続するということです。
ということは、そこから先は全く同じことの繰り返し、同じ時間をかけるとまたいつかと「同じ状態」になるということですね。数十年、数百年なのか、どれくらいのスパンで繰り返されるのかは置いておくとしても、無限という時間のなかでは、無限に同じ動きを永遠に繰り返していくことになります。
まさに、

永劫回帰!
は、わかったけど、
それがどうして最強の絶望なのよ。
目を潰されるほうが怖いわよ。

もう少し説明するぜ。
今の話は、トレイという小さな空間で例えたから、
イマイチ絶望感を得られなかったかもな。
このトレイを宇宙、ボールを原子に置き換えても同じことが言えるわけだ。

スケールの振り幅が絶望的ね。

でも理解はできるだろ。
トイレのボールの話は身近な例えだが、
同じ物理法則が働くのであれば、
それは宇宙と原子のスケールにおいても同じことになる。
要するにトレイの話は、この世界においても
同じく繰り返すこととなるってことだ。

同じってのはわかったけど、
そんなことより、
ちょいちょいアナタ消えて文章だけになるのなんなのよ?

じぜるの手抜きだな。
全部会話調で完結できるほど文章力がないそうだ。
長めのセリフになると顕著になるが、勘弁してやってくれ。

ほんとじぜるっていつも身の丈に合わないことやるわね。
・・・話を戻しますね。
何千億年、何兆年、何千兆年かもしれませんが、無限の時間のなかで、全く同じことが再び発生します。
例えばある生物を作っている原子が、死によって、バラバラになったとしても、当然消滅するわけではなく、くっついたり、離れたり、また違う形になってはまたバラバラになって、長い時間のなか、またいつか同じ場所に集まって、同じ生物を作るってことがあるかもしれません。
もちろん普通に考えたら、ありえないことですが、でもそれは時間的な制限を前提にしているからです。
今話してるのは無限の時間を前提にしていますから、言い換えると「また同じ状態になるまで」ということです。そうするとどうでしょうか、十分ありえる話に聞こえませんか?
さらに言うなら、1億個のサイコロを同時に転がして、出た目と同じ目を出す確率なんて途方もなく小さいわけですが、
「1億個のサイコロを降って、1回目と同じ目が出るまで振り続けて、同じ目が出る確率」
となると、これはもう100%ということなりますよね。実践できる人間はいませんが。
この話をさらに、宇宙規模に拡大させて考えるだけのことです。
トレイのボールやサイコロの出目とか、それら全てひっくるめて「宇宙全体」が回帰するというのが、「永劫回帰」であるとニーチェは言っています。

なんとなく、言ってることはわかったけど、
その宇宙規模の繰り返しが、
イマイチ最悪の絶望だってのにピンとこないのよね。

永劫回帰がなぜ絶望なのかの説明が必要だな。
ちなみに、
永劫回帰自体はニーチェ自身が「聖なる嘘」と言ってしまうくらい、
ツッコミ所満載のヨタ話ではあるんだがな。

えええええ!そうなの?
じゃぁなんだったの、
この「永劫回帰」のくだりは。

もちろんこれから話す本当の「最悪の絶望」の解説のために
必要な考え方ではあるが、永劫回帰自体は、
物理科学的には大間違いなヨタ話ということだな。
といってもニーチェがやりたかったことは、
「想像しうる限りの最悪のケースを想定して、
その上で前向きに生きていける考え方や方法を生み出すこと」
だからな。
永劫回帰自体が科学的な根拠のないヨタ話でも、
全く問題はないってことだ。

はえー、
たしかにそう言われればそうだがー。
そもそも永劫回帰で想定される宇宙観というのは、
「有限の空間で有限個の物質があって、その運動パターンは有限」ということを
前提としているわけですが、これ自体が間違っているわけです。
先程のトレイの話にしてこのスケールでさえも、ボールの運動パターンは「無限」となります。
どれだけ繰り返しても同じ状態にはなり得ません。
理由を簡単に言えば、ボールの位置そのものが「無限の可能性」を持つからですね。
ボールの位置を2次元で表現するとして、X軸10cmのY軸10cmにあるときもあれば、X軸が10.001のときもあるし、10.00000001のときもあるかもしれません。
つまり無限の細かさということです。cmとかmとかは、人間が人間の都合で作ったただの単位に過ぎませんので、自然界にとっては知ったことではないわけです。
これを考えると、ボールの位置というのは有限ではありえません。
0.0000001のズレなんて、たいした違いはないと言えるかもしれませんが、バタフライ効果を考えると、この小さなほんのわずかな違いが、結果としては全く違う結果をもたらすということが言えるわけですね。天気予報がいまだに確率でしか表現できないのもそのためです。
つまりカオス理論や量子論的な観点から言えば、永劫回帰は全くの大間違いってことになります。
しかしそれは先に述べたように、ニーチェにとっては大した問題ではなく、嘘も方便ってやつなのです。
※カオス理論だの量子論だの登場させてしまいましたが、さほど重要ではありません。この先この用語は登場しませんので、ご存知なくても大丈夫です。

なるほど、永劫回帰自体は嘘っぱちだが、
「永遠に同じことを繰り返すことは最悪の絶望」だということね。
それでなんで同じことを繰り返すと最悪なのよ。この質問自体だいぶ繰り返しておりまんねんやで。
価値と意味の消失
ニーチェは永劫回帰のことを次のように言っています。
「これまで生きてきた人生をもう一度、もう一度を無限に繰り返さなければならない。
何一つ新しいことはなく、あらゆる苦痛と喜び、あらゆる思念とため息、おまえの人生の全てが寸分違わず、しかも全く同じ順序で繰り返される。
宇宙は砂時計のようで、おまえはその中のひとつの砂粒にすぎない。
その砂時計は永遠にひっくり返され続ける。」

同じ時を何回も繰り返すのか。
エンドレスエイトみたいなことね。
たしかに長門じゃないと発狂するかも。
でも、それってそこまで最悪と言えるのかしらね。

もう少し、繰り返すということを掘り下げてみるぜ。
繰り返すということは、どういうことか。
それは価値であったり、意味が失われてしまうということだ。
たとえば、「限定品」とか「一点物」って言われると、そのモノ自体は大したことなくても、それだけで一定の価値が生じるだろ。

そうね。たしかに。
限定品も一点物も、それ自体が無限に繰り返されるなら、もうありがたみなんてありませんね。
無形なもので言えば「目標を達成する」という達成感ももはや無いと言えます。
だってまた同じ目標が生じるわけですから。「限定品」とか「一点物」の話は、価値が失われるという話ですが、今度は価値を生み出せないという例え話です。
「地面に穴を掘る」という作業をしているとします。掘った後は、その掘って出た砂でまたその穴を埋めます。
しかも1回じゃありません。この穴を掘って埋める作業を繰り返し、無限に繰り返します。
しかも、この作業中に他の出来事は起きません。しかも室内で昼も夜もわからず、時間の流れを感じることも出来ません。この作業に何か価値や意味を生み出すことは出来ますか?1000回やれば終わりとかもありません。
そうすると、1000回目にすごい達成感が得られるという価値が生まれてしまいます。
1億回やろうと終わりはありません。
これをとことん突き詰めて考えると、世界が繰り返しているのであれば、人生はこれ(穴掘り)と同じで、生きている意味、人生の意味というものは、もはや無かったということになるわけです。
こうなってくるともはや死ぬことにさえ意味はないと言えますよね。
どうせ同じ人生を繰り返すわけですから。

なんという虚しさ。
絶望だわ。。。これ以上の絶望はないと言えますね。

いい感じに絶望してくれたようだな。
最初に言った「一旦絶望する」とは、このコトだ。
しかし安心しろ。
ニーチェはこの永劫回帰の世界で、
前向きに生きていく方法を残してくれている。
だから現代においても、こうやって語り継がれているんだぜ。
神は死んだ
ニーチェはその前向きに生きていく方法を伝えるために冒頭で登場した有名な言葉
「神は死んだ」と言いました。

それって結局どういう意味なのよ。

もともとこのセリフは、ニーチェの小説
「ツァラトゥストラはかく語りき」
に登場するセリフで

ツァラス?ツァラトゥ?

ツァラトゥストラだ。たしかに舌噛みそうな名前だな、、
主人公の名前だぜ。
ニーチェは神について、
「神とは、弱者のルサンチマンが作り出したものにすぎず」
とも言っている。

なによルサンチマンって?
東北出身の芸人さんかな?
カロリーゼロかしら?

ちょっと何言ってるかわからないですね。

それわかってるでしょ。
ユダヤ教とキリスト教

ルサンチマンってのは、
哲学用語で「弱者の嫉妬心・恨み」とか、そういう意味だ。
ニーチェは「神への信仰」や「神という概念」そのものを、
「弱者の嫉妬心・恨み」という歪んだ負の感情から発生したとして、
こうも言っている。
「神への信仰が、人間本来の生を押し殺している。」

なかなか言うじゃない。
キリスト教を信仰されてる方々が聞いたらなんて言うか。

当然、キリスト教が広く浸透している西洋世界において、
尋常じゃない批判があったようだ。それでもニーチェは
次のようにその正当性を主張している。
はるか古代の価値観で「善い」とは、強い人、優れている人のことだった。
逆に「悪い」とは、弱い人、力がない人のことであった。
これは人に限らなくても言えることではあるが、
今の価値観だと、強く能力が優れた人間より、
「力が弱く大人しくて素朴で質素な感じの人」のほうが、
いわゆる「善い人」に思えることってないか?

むむー、たしかに。
少なくとも悪人、という印象を持たないわね。
なんでかしら?

昔は力があることが「善い」ことだったのに、
いつからかそうではなくなっている。
それはあるときから「価値観の逆転」が起きたとニーチェは言ってるぜ。

ええ!?
そんなインターネットもないような時代に、
みんなの価値観がひっくり返るようなことあるっての?

あるんだな。
さっきネコも答えを口にしてたがな。

ええ?なんか言ったかしら。

出来事というよりは、ある存在だな。
それは「キリスト教」だ。

あ、言ってたわ、まさかそれとはね。
しかもそんなキングオブ宗教を名指しして大丈夫?

わたしじゃない、ニーチェだ言ってるのわ!

はいはい。
でもキリスト教がそんな善悪をひっくり返すような
教えをしてるってのはピンとこないんだがー。
言うほどキリスト教のこと知ってるわけでもないけど。

キリスト教のことについても
いつか解説記事を作ってみるのも悪くないな。
勝手なこと言わないで。

とにかく、
いかにキリスト教が価値観の逆転を引き起こしたかを説明するぜ。
まずキリスト教の原型となるユダヤ教の成り立ちを
ざっくりとでも把握しないとならんので、
時代は紀元前15世紀に遡るぜ。

えらい遡るわね。
さて、ユダヤ教を作ったのは当然ユダヤ人なんですが、ユダヤ人というのは、とても不幸な歴史を歩んでいます。
もともとヘブライという所で暮らしていましたが、古代エジプトの軍によっていきなり連れさられます。ここからが聞くも涙、語るも涙のユダヤ人の不幸の始まりというわけですね。

拉致から始まるのね。聞いたことあるけど。

「出エジプト」って有名な話だからな。
連れ去られてから、エジプトを脱出するまで、
約200年かかってる。

200年!なっが!
当然、奴隷として生まれ奴隷として死んだ世代もたくさんいるわけです。
その後モーセが中心となって、ユダヤ人をエジプトから脱出させます。
海がバコーーーン!と割れて海底を渡り追っ手を振り切るやつが有名ですね。
本当にあったかどうかは置いておくとして、それくらいの奇跡の逃亡劇を演じて、神から与えられた「約束の地イスラエル」にて建国を果たします。

あら、良かったじゃないの。それで?

北と南に国が分裂する。
そしてそれぞれが違う国に滅ぼされ、
結局また捕虜となって捉えられる。
アッシリア捕囚とかバビロン捕囚ってやつだな。

おいおい(汗)
その後は、ユダヤ人達を支配している国が戦争で滅び入れ替わることはあるものの、基本的には自分たちの土地、国を持つことは出来ないまま時が流れます。
そして世界各地へ移住離散していくことになります。
建国以来、王朝が一度も途切れていない我が国、日本とは対照的な民族とも言えますね。
そんな不遇の歴史を持つユダヤ人が作ったのが、「ユダヤ教」というわけです。
これがまたこの不遇な歴史を大きく反映させた宗教となりました。
いわゆる「選民思想」というやつですね。

選民ってのは、ユダヤ人だけが選ばれた民族ということかな?

様々な解釈があるのも事実だが、
ざっくり言うとユダヤ人は神様と特別な契約をしていて、その契約を守っていくことで、最終的(最後の審判)には、
ユダヤ人だけが救われて、それ以外は淘汰されるという思想だな。

穏やかじゃない気もするが、
ユダヤ人の歴史を考えると、
わからないでもないわね。

そうだな。迫害され続けてきた民族をひとつに束ねるには、
「私達は神様に選ばれた唯一の民族で、いつか救世主が救ってくれますよー」と景気のいいことでも信じ込まないと、とてもやってられなかっただろうな。
ですが現実は、何百年もひどい目にあってるのに、神様は現れないし、何もしてくれません。
そうなったら、いくらなんでも気づき始めたのかもしれません。
ユダヤの神様は時間の流れのとともに、徐々に変化し始めます。
たとえば、「旧約聖書」の最初の方は、いわゆる復讐系の神様で「いつか神様がユダヤ人以外の民族を滅ぼすであろう!」と威勢のいいことが書いてありましたが、
時代が新しいページになると、
「苦しみを受け入れましょう」「他者のために命を差し出しましょう」「心臓を捧げよ!」的な受苦系の神様に変わっていきます。
ただ待てど暮らせど神様は助けに来ません。しかしそんなことはあってはならないのです。
でも現実は救われないまま。
そうなったらもう、「この苦しみには何らかの意味がある」と考えざるを得なくなります。
「現実の世界での復讐」を諦め、
「妄想の世界での復讐」にシフトして憂さ晴らしをするようになったのでしょう。
こんな具合に、
「あなた達はなんて哀れで暴力的なのか。どうぞどうぞ無抵抗で無害な私を
好きなだけいじめてください。それであなたたちの気が晴れるなら。
そして私はあなた達が醜い憎しみの心から逃れられますようにと、祈っててあげますねwwww」

わお!無理やり感あるけど、
なんか立場が逆転したようにも感じるわね。
いじめられてるけど上からだ。

そういうこと。
ユダヤ人たちは現実の世界では迫害され、
どうにもならないから、
「暴力は悪」「憎しみは悪」という価値観を作り出し、
その価値観の中において敵に勝利するという荒業で
復讐心を満たしていくことにした。

ただの負け惜しみなんじゃないの?

ストレートに言うとそうだな。
ともかく、ユダヤ教の「受苦の教え」をモロに引き継いで、
さらに発展していくのがキリスト教というわけだ。

そういえば、もともとキリスト教の話だったわね。
「汝、隣人を愛せよ」ね。博愛主義よね。

そうそう、他には
「上着を取ろうとする者には、下着も与えよ」であったり、
「右の頬を打たれたら、左も差し出しなさい」だな。

筋金入りのドMね。

ドMと言われても仕方ないかもな。
ともかく、このドM精神、
「嫌なことはもっともっと受け入れなさい」ってのは、
人間が本来持つ純粋な欲望と比較すると「自然な考え方」とは言えないよな。
しかしそんなキリスト教が、当時の大国ローマの国教となることで、
爆発的にヨーロッパに広がり、西洋社会の価値観をひっくり返していくいことになる。

価値観の逆転きたわね!
その影響が今もずっと継続してるとわ。

あくまでもニーチェに言わせると、
ではあるけどな。
善悪の反転
たとえばワシやタカ、オオカミなどの肉食獣は「悪者」として、ヒツジやウサギ、ヤギなどの草食動物は「善者」として描かれるような物語は、明らかにキリスト教的な価値観と言えます。
現実世界では勝つことのできない弱者が、妄想の世界での復讐のために作り出した、これまでにはない価値観をニーチェは
「僧侶的・道徳的価値観」と呼んでいます。
キリスト教の爆発的な普及により、価値観が逆転した世界では、その道徳や教育が、「欲望をむき出しにしない謙虚な姿勢こそ人間のあるべき姿」となっていきます。これを「奴隷道徳」と名付けています。
それらは全て弱者のルサンチマン(嫉妬心・恨み)に過ぎないと言っていますね。
そんな綺麗事を言っている弱者達も、どうせ力を手にできる機会がくれば、迷わず手に取るはず。
それを手にできないからこそ、その叶わない状態を惨めにしないために、弱者であることに価値を発生させる不自然な価値観を作り出しているとニーチェは言っています。
繰り返します。ニーチェが言っているんです!

びびってんじゃないわよ。
ニーチェすごいこと考えるわね。
言うこともなかなかストレートね。

たしかに当時の西洋社会でこの発言、主張はやばいよな。
実際ニーチェは、世間からは総バッシングを受け、理解もされず、大学を追わえることになります。
最後には道端で発狂して倒れてしまいました。そのまま正気に戻ることはなく、1900年、肺炎のために55歳の生涯を閉じるのでした。
とは言うものの、このように反宗教的、反道徳的な主張はニーチェ以外にも当時ごまんといたことでしょう。では、なぜ100年以上の時を経てもニーチェは現代においても語り継がれているのか。
なぜニーチェが偉大なのか、それは批判だけではなく、「さらにその先」についてもしっかりと考え著書に残しているからと言えますね。それが有名な超人思想です。
末人と超人
まず超人思想の説明の前に、末人について解説します。
神はルサンチマンの産物に過ぎないかどうかは置いておくとしても、たとえば
「神様なんて信じないし存在しない。」
「世界は特に意味はなく回っている。」
「生きる目的なんてものは決まっておらず、死んだらただの肉となる。」
「死後の世界なんて存在しない。」
こういった価値観はニーチェの時代では少数であり、とんでもない考えだったわけです。
しかし、現代人のわたしたちからすると、どうでしょうか。
ここまでストレートに表現はしないまでも、それなりに理解納得はできる価値観ではないでしょうか。
いわゆるニヒリズム(虚無主義)と呼ばれる考え方ですね。
ニーチェは特にこの考え方について哲学した人でもありました。
それが先述した最強の絶望「永劫回帰」、まさに最強のニヒリズムを生み出すわけです。
このニヒリズムがさらに進んだ世界がいずれ訪れることをニーチェは予見し、その世界を
「神は死んだ」
と表現しました。つまり、この言葉は私たち現代人が生きる世界のことを表現した言葉なのです。
さらにその世界に出現するであろう人間を「末人」と名付けたのです。
末人とは、
「目標もなく、ただ平穏に日々を過ごし寿命を待つだけの人間」
「健康と惰眠を望み、なんとなく人生が終了することを願う人間」
「半分眠ったような、霧の中でぼんやり淡々と日常を消化するだけの人間」
のことを言っています。
ニーチェはこういうった末人がこれから次々と増殖していくだろうと考えたのです。
お知り合いにそんな方はいませんか?ちょっとドキっとさせられますね。

ドキ!
超人思想
では、そんな末人が溢れ神が死んだ世界において、我々がどうあるべきか、どのように生きるべきとニーチェは提唱しているのでしょうか。
それが超人思想という、これもまたニーチェ独自の思想なわけです。先述した僧侶的・道徳的価値観が、人間の本来の欲望を阻害しているということですが、
では、人間本来の欲望とは何か。
それは、「力への意思」です。
つまり、権力、経済力、戦闘力など人間が求めているものは、こういった「力」です。
強くありたいという人間本来の素直な欲望こそが、人生の本質であるとし、その力への意思の赴くまま、強くなることを目指す者を超人と呼びました。当然ここでいう超人とは、映画や漫画に出てくる摩訶不思議な能力を振るう人間のことではありません。
身も蓋もない感じで言えば、見た目も含め普通の人間と変わりありません。
では、超人が普通の人間と異なる部分というのはなにか。それは、
「力への意思から目を背けず自覚し努力をしている者」これに突きます。
その自覚が、その小さな違いがその者の生き方と人生に大きな違いを生むのです。たとえば超人は
一度やると決めたなら、最後まで努力を惜しみません。
失敗を恐れて、逃げるための言い訳を決して口にしません。
負けず、揺るがず、顧みず、屈しず、
ただ心に湧き上がる力への意思に従い、その生命を燃やします。
そんな志で生きる超人が、末人に溢れ神が死んだ世界において、堕落することがあるでしょうか。いいえ、決してありません。
なぜなら、彼らは自分自身の内側に「生きる価値」を創造しているからです。
その中心にあるのは、本来人間が宿すとても自然な力への意思です。
外から与えられた歪な価値観に影響を受けていないからです。

永劫回帰のような究極のニヒリズム(虚無主義)に
立ち向かうための前向きな哲学として、
ニーチェ先生はこう言っている!(んだと思う)

はい!

「この運命を受け入れて、今という瞬間を肯定的に生きよう!」
どんな不幸を味わっていようと、
これから先どんな不幸が訪れることになろうと、
「もう一度!」と思えるような「今」を探し出せ。
今の瞬間、この瞬間は最高だった!また繰り返してでも構わない。むしろありがたいくらいだ。回帰バンザイ!

言ってることはわかるけど、そんなの限られた人なんじゃないの?
大富豪とか、有名人とか、権力者とかだけのさ。
みんな人生イージーモードってわけじゃないのよ。

気持ちはわかるが、それは人生を受け身で生きているということで、
ニーチェに言わせると、
そんなものは、自分自身の意思で「バンザイ!」と思い込めばいい
というだけの話なんだ。
つまり、「素晴らしい今」「また繰り返したい今」というのは、
歴史に残るような大それたことじゃなく、日常の些細なことでもなんだっていいわけだ。
帰り道に見上げた空が、見事な夕焼けで釘付けになった瞬間であったり、
今日買ってきたコーヒーが美味しいと思えた瞬間であったり、
我が子が「パパとママの子に生んでくれてありがとう」と言ってくれた瞬間であったり、
こんな具合に、誰にでも起こる日常や、当たり前の小さな出来事、
そんな瞬間を全身全霊で感じて、肯定するってことだ。
この肯定が、
「何千年、何億年の果てしない時間をかけても、またこの瞬間に戻ってきたい!」
と思えるほどの肯定であったなら、もうその肯定は、
銀河系を超えて、宇宙も全て、
永劫回帰そのものを肯定するものとなるわけだ。
永劫回帰があるからこそ、
再び「あの瞬間」に「あの出来事」に「あの人」に出会えるということになる。
今という瞬間を肯定できるということは、
永劫回帰の世界、最悪の絶望、神が死んだニヒリズムの世界をもまるっと愛せるということだ!

ねぇ、ちょっとニーチェ降りてきてない?

名前だけでも覚えていってください。
- 誕生日:10月2日
- 血液型:o型
- 癖:細かいことが気になる
- 住まい:福岡→大阪→鹿児島→神奈川→北海道→青森(イマココ)
- 所持品:火吹き棒
- 服装:前掛け
- 視力:メガネ
- 利き手:右
- 活発度:30%
- 優しさ:50%
- 清潔度:90%
- 記憶力:朝ごはんは覚えてる
- 好きな食べ物:生ハム、マグロ
- 嫌いな食べ物:みょうが
- 好きな飲み物:ウイスキー
- 好きな動物:猫と犬とドラゴン
- 好きな植物:おじぎ草
- 好きな音楽:ブルース・ロック
- 好きな場所:キャンプ場
- 好きな季節:秋
- 好きな言葉:「手は手でしか洗えない、得ようと思ったらまず与えよ。」
- 苦手科目:暗算
- 寝坊する確率:15%
- お風呂の時間:3時間
- 夜更かし割合:1割
- 仲のいい人:陸河童
- 頼りにしてる人:Stratowriter
- 波長が合う人:sleepinglife.uk
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