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「1917 命をかけた伝令」を観る前に ~分かった気になる第一次大戦~

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本年度のアカデミー賞の撮影賞、音響賞を獲得した、サム・メンデス監督の「1917 命をかけた伝令」を鑑賞してきました。映画としての感想としては「素晴らしいデキ」だったのですが、やはり実際の歴史を題材にした作品、きちんと歴史的背景を知った上で鑑賞した方がこの類の映画は絶対に面白い!(あくまで私の持論です)

今から100年以上前に勃発した第一次世界大戦の西部戦線を舞台にした作品ですが、この戦争はなかなか日本人には馴染みがない。実際どういった時代背景だったのか、できるだけ分かりやすくまとめてみます。

第一回の今回は、第一次世界大戦の全体概要と開戦までの流れについてです。作品を鑑賞する上で関連性が深い直接的な西部戦線の背景と、映画自体の感想などについては第二回以降にまとめたいと思います。

開戦前夜 ~20世紀初頭、黄金の時代~

映画は開戦から3年余り経過した1917年を描いていますが、この大戦が始まる以前の20世紀初頭は、一体どんな時代だったのでしょう。第一次大戦が開戦した1914年は、日本は大正3年。長く続いた徳川の世から維新を経て45年続いた明治。日清、日露の二大国との戦争ののち、新時代に突入しています。

世界に目を向けると、19世紀にヨーロッパで立て続けに発生した市民革命により大国も王権国家が打倒され、立憲君主制(王様の権限が憲法で制限されている)や民主主義国家が現れ始めます。またイギリスで始まった産業革命により大量生産、大量消費の時代となり、新たに生まれた労働者という階級を中心とした社会構造に大きな変化が起きていました。まさに近代の幕開けと呼ばれるに相応しい時代です。

ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」

■幸福に包まれたヨーロッパ
そんな中、長く戦争のなかったヨーロッパの市民達は幸せの絶頂期にありました。産業革命と合わせて産声をあげた蒸気機関や電気、鉄道や蒸気船の登場は人々の生活を大きく変えており、自由と科学技術による奇跡に、未来に心躍らせ幸福を謳歌していたといいます。1900年に第五回の万国博覧会とオリンピックが開催されたパリには当時最新の技術、流行が集まっており、当時世界一高い建築物だったエッフェル塔の膝元には、動く歩道や直径100メートルの大観覧車が作られ、新時代の幕開けを象徴していました。

また娯楽ではサイレント映画が登場し、エジソンの蓄音機は劇場でしか聴けなかった本物の音楽を大衆に届けました。コルセットから解放された女性たちはファッションを楽しみ、1903年に初飛行したライト兄弟に倣った「飛行機ダンス」が流行。まさに時代は黄金時代に突入していたのです。

針の上の列強の均衡

市民達が幸福を謳歌する中、ヨーロッパの列強各国はさらなる自国の繁栄を目指しつつ、ギリギリの均衡が保たれた外交状態を保っていました。大航海時代に始まった列強による植民地化も19世紀には既に収束しており、世界の勢力地図はほぼ塗りつぶされた状態。外に向いていた視線は再び近隣に移り、列強各国も本国での産業と経済の発展を目指すようになります。ここで改めて、1910年代のヨーロッパの縮図をまとめていきます。

■燻り続ける遺恨、フランスとドイツ
当時ヨーロッパで最後に起きた大国間の大きな戦争は、1870-1871年に起きた普仏戦争でした。当時のドイツは複数の君主国による連邦を形成していましたが、産業革命により生まれた資本家達の後押しによりドイツ民族による統一国家誕生の機運が高まっていました。そして北ドイツ連邦で最も力を持っていたプロイセン王国の首相ビスマルクは、敵を作る事でドイツ人の民族意識を高め、結果としての統一を画策します。そして当時スペインの王位継承問題で揉めていた隣国フランスをターゲットに対立構造を煽る事に成功し、両国は開戦に踏み切ります。そしてビスマルクの狙い通りドイツ連邦諸国はプロイセン側に立って参戦するのです。

ビスマルク

団結したドイツ連邦はセダンの戦いで大勝、フランスの皇帝ナポレオン3世は初戦で捕虜にされてしまいます。これにフランス市民は激怒。2日後にナポレオン3世の廃位が宣言され、国防のための臨時政府が設立されますが、ドイツ連邦の勢いは止められず、パリまでも包囲。その最中ベルサイユ宮殿にてプロイセン国王は統一ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世として戴冠し、アルザス=ロレーヌ地方の割譲を条件にフランスとドイツ諸国は講和します。

普仏戦争とドイツ連邦諸国

結果としてドイツは統一され、敗戦後の政治不安からフランスは帝政が完全に打倒され共和政(君主を持たない政治体制)に移行します。しかしこの二国間のお互いへの反感は簡単には拭いきれず、やがて世代を超え第一次世界大戦開戦の遠因となります。

■ロシアの南下政策と極東進出の失敗
ロマノフ家が統治していた帝政ロシアは、長年の念願である不凍港を獲得するため、19世紀に南下政策で各方面への進出を画策します。基本的に国土の大半がツンドラ地帯であるロシアでは、冬季に大半の港は凍結して使用できなくなってしまいます。大航海時代以降、貿易が列強各国の主な収入になっていましたが、ロシアは年間通して使用できる港は北極海に面したムルマンスクと、太平洋に面したウラジオストクなど、数えるほどしかありませんでした。

しかし首都サンクトペテルブルクからまだ近かったムルマンスクが面した北極海は、冬季に海自体が凍結してしまうため、海路を東に向けて太平洋に出ることはできません。重要な貿易先であるアジアへ向かうためには、北欧を大回りしてアフリカ航路に向かわなければなりませんでした。

一方で太平洋に面しているウラジオストクですが、こちらはサンクトペテルブルクと超大な国土を挟んだ反対側に存在します。2都市間は直線距離にして6,500kmもあるのです。貿易を行うにはシルクロードレベルの陸路での輸送が必要になってしまう。

ロシアの南下政策と不凍港

ただでさえ列強各国の植民地獲得合戦に乗り遅れていたロシアは、1891年にシベリア鉄道の建設を開始し、極東への進出を開始します。しかしロシアの南下の弊害になったのは他でもない日本でした。ロシアとしては1895年に三国干渉(フランス、ドイツ、ロシア)によって新たに獲得した不凍港、旅順を活用すべく、遼東半島と満州の獲得を目指しますが、日清戦争に勝利し、欧米列強の帝国主義の極東進出を危惧していた大日本帝国と激突する事になります。

しかし大国ロシアと日本との戦い日露戦争(1904-1905年)は、同じくロシアの極東進出を防ぎたかったイギリスとの日英同盟と、陸海の大日本帝国軍の奮闘に阻まれ、ロシアの敗北に終わります。(旅順攻略、203高地の戦い、日本海海戦などについては、いずれまた語りたいです)

ロシアは戦中の1905年に労働者による第一革命が発生しており、立憲君主制に移行。さらにこの戦争の大敗北とその後の経済破綻により、極東での領地拡大は断念せざるを得なくなります。そして残された道、バルカン半島に残された力を注ぐ事になります。

■バルカン半島をめぐる大国の思惑と諸国紛争
ヨーロッパが平穏を保つ中、東欧と小アジア地域は激動の時代を迎えていました。
最盛期の17世紀には北アフリカ沿岸やエジプト、中東から北は現在のハンガリーまで勢力を拡大したオスマン帝国も、ヨーロッパ各国やロシアとの相次ぐ戦争の敗退と、各地の勢力の独立により、その領土は見る影もなく小さくなっていました。

ロシアに露土戦争で敗れ黒海北岸とクリミア半島を切り取られ、セルビアは王国として独立。ナポレオンのアレクサンドリア遠征の影響からエジプトも自治主権を回復。さらに弱体化したオスマンからギリシャやバルカン半島の各国が次々と独立を獲得していきます。

オスマン帝国の領土の遷移

このオスマンの弱体化の流れに目を付けたのはオーストリア=ハンガリー帝国でした。
中世に政略結婚により広大な領土を獲得したオーストリア帝国の名門ハプスブルグ家は、1866年の普墺戦争にてプロイセンに大敗しドイツ連邦からも追放され、国際的地位を失っていました。元々多民族国家であったオーストリア(支配階級はドイツ人)は勢力を取り戻すため、国内で独立運動を続けていたハンガリー人に自治権を認め、1867年にハプスブルグ家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を同君主とする二重帝国を成立させます。

フランツ・ヨーゼフ1世

当時のオーストリアは、衰退するオスマンのバルカン半島の領土を、同じくバルカンに野心を抱くロシアと協調し、分割するという野望を持っていました。(ロシアはどうしても地中海に出たかった)露土戦争(1877-1878年)に戦勝国ロシア側で参戦したオーストリアは、オスマン帝国領であったボスニア州ヘルツェゴヴィナ州の行政権を獲得していましたが、1908年にオスマン帝国内で青年トルコ人革命が発生したことをきっかけに、突如としてこの2州をオーストリアに併合する事を宣言します。事前にオーストリアはロシアに対し、黒海とエーゲ海を結ぶボスポラス=ダーダネルス両海峡の通航権を保障する事を交換条件として、ロシアはこの併合を黙認するという密約を取り付けます。

ボスニア危機直前のバルカン半島

しかしこの併合に強く反発したのは、ボスニア州とヘルツェゴヴィナ州に数多く住んでいたセルビア人と、露土戦争でオスマンから独立を勝ち取っていたセルビア王国でした。セルビア人はバルカン半島西部の広範囲に古くから居住しており、その地域はセルビア人の元に統一されるべきであるという大セルビア主義を掲げていました。

この事によりオーストリアとセルビアは一触即発になりましたが、これはオーストリアの思惑通りでした。一度戦争になってしまえば小国セルビアは相手になりません。一気にその領土まで飲み込もうとしていたのです。

しかしこのオーストリアの思惑は誤算となりました。協調しバルカンを分割するはずのロシアが反対の意を表明したのです。ロシアの地中海進出を恐れたイギリスフランスがボスポラス=ダーダネルス海峡の通航権を承認しなかったため先の密約は成立せず、元々同じスラブ民族であるセルビア側に立ったのです。

これによりセルビア側には主権を侵害されたオスマン帝国やフランス、ロシアが加担し開戦間際にまで緊張が高まる状況(ボスニア危機)になりますが。しかし最終的にオーストリアの同盟国であったドイツがロシアへの開戦をちらつかせたため、ロシアの圧力によりセルビアが2州のオーストリア併合を認める形で終息することになったのです。しかしこのオーストリアとセルビア人の対立が後々、第一次世界大戦の最大のきっかけになってゆくのです。

またこれ以外にも、ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロの4国から成るバルカン同盟とオスマン帝国が戦いアルバニアが独立を勝ち取った第一次バルカン戦争や、ブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃し、マケドニアの大半を失った第二次バルカン戦争など、この時期のバルカン半島は旧オスマン帝国領を巡って紛争の坩堝と化していました。

■イギリスとドイツの軍拡競争
19世紀半ばから19世紀末にかけてのイギリスは黄金期を迎えていました。世界に散らばるの植民地からの資源と奴隷に支えられた産業革命により「世界の工場」と呼ばれたイギリスは、経済軍事共に最盛期を迎えており、ヨーロッパはそれまでの農地、領土を巡った覇権争いの時代から、工業生産と経済を中心とした資本の時代に移り変わっていきます。結果この頃のヨーロッパはイギリス経済を中心とした大きな武力衝突のない平穏な時代が続き、ローマ帝国黄金期の「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」に準え「パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」と呼ばれていました。またこの時期イギリスを63年7か月もの間統治していたビクトリア女王のビクトリア朝は、ウィリアム1世から続く長いイギリス王室の治世の中で絶頂期の王朝とされています。

ビクトリア女王

しかしそのイギリスに対抗する力を付けてきたのはドイツでした。普仏戦争でフランスに勝利し念願の統一を果たしたドイツは、政治経済と共に大きく成長を遂げます。1888年に即位したヴィルヘルム2世は統一の立役者であった首相ビスマルクと対立し、1890年にビスマルクを更迭します。ヴィルヘルム2世は君主自らが政治を行う親政を布き、潤沢な資金を元に軍備拡張を始めます。特にドイツは海外進出を目的として帝国海軍を設立しますが、これに反応したのは当時世界最強の海軍ロイヤル・ネイビーを持つイギリスでした。その結果、両国は主力艦の建造でお互いを追い越そうと躍起になり、この軍備拡張競争は周辺列強を巻き込み、各国は自国の工業生産力を軍備に投入してゆくことになります。それは各国の緊張を高めることに繋がってゆきます。

ヴィルヘルム2世

絡み合う同盟関係

■開戦時の同盟関係と各国の思惑
さて、ここまで20世紀初頭の主だった列強各国の状況を説明してきましたが、もう一つ語らなければいけないのが列強の思惑と同盟関係です。

1879年にドイツはオーストリア=ハンガリーと独墺同盟を結びます。これはロシアのバルカン半島への進出を防ぐ狙いがありました。この同盟に協調したイタリア王国が加わり、1882年には三国同盟となります。しかしオーストリアとイタリアの間には南チロルやトリエステ地方などを巡っての領土問題があり、関係は良好ではありませんでした。(未回収のイタリア)

これに対抗するためにロシアは、ドイツへの積年の恨みを持つフランスと露仏同盟を1894年に締結。イギリスも1904年に対ドイツ政策としてフランスと英仏協商を、1907年にはロシアと英露協商を締結。ここに三国による緩い同盟関係である三国協商が成立します。

またイギリスは1902年に、極東でのドイツ、ロシアとの利権争いのため、日本と日英同盟を結んでいます。(2年後に日露戦争が勃発)この同盟はその後二度更新され、継続されていました。


こういった複雑に入り組んだ列強各国の同盟関係と、その上に成り立っていた均衡が背景にある中、1914年に起きたある事件をきっかけに、世界は堰を切るように怒涛の流れに飲み込まれていきます。

次回はいよいと開戦と、大まかな戦中の流れについて追っていこうと思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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